topisyu.hatenablog.com
の記事に関して
elve❄冬仕様 on Twitter: "@topisyu 「おい」「はい、お茶」のテンプレ的な対応を求められる事はまだ多く感じるのです。老人ホームで老害になっていくのかしらん。"
というわけで、ハイソなご家庭では今後「察してちゃん」を察しないし、自分が察して欲しいと期待することもなくなるでしょう。
察してちゃんを察してあげても「面倒な人に依存される」と言う状況を生むだけだから、最初から関わるな、となるわけです。圧倒的に正しい。こういった考えが共感され、尊重されていくんだろうなぁ、と。
人間関係の遊び部分に「察し」が有るのだと思うのですが、そういうことを許さない風潮が強くなるのかも知れないですね。
ウチは同居人が50代で、なんというか「アレ、なんだっけ、アレ」「はいはいコレでしょ」がスゲー喜ばれるので、相手が呆けようが何しようが察してあげるのが愛情だと思われる人間関係なのかなぁとか思います。こっちのことは察してくれませんけども、はい。←期待してるw
ただ、「甘え」「察し」「気遣い」「愛情」って、微妙に被る部分があると思うンですよね。「心配」もかなぁ?
被ってる部分できっと相手の的外れな気遣いも許してあげる、とか許されるとかいう関係があって、それが愛情と結びついている部分もあるのかなぁ。それって結局「甘え」なんだけど、とか。
底辺で老いていく人間として、今後若い人に迷惑をかけず、お互い快適に生きていくために、変なプライドなんか持たずに
「おしめ替えてください」
ってお願いできる老人にならんといけないのだろうなぁとか思いましたw
お願いする相手いない可能性・大。
ってか、ハイソなご家庭でそういう「おつきあいする人間の選定」が行われる一方で、おそらく介護職とかを担う底辺組は、日本語すら危うくなっていくわけですよ。
自分の要求も言語化できないけど察して欲しい。相手が何かもにゃもにゃしてるから察してあげる。
私の苦手な「毛繕い」文化が花開くわけですな。
結局コミュ障の老人に救いは無いじゃないですか!!←自分で言い出して勝手に絶望w
追記
うーむ、どうも自分が「ずれたお察し=愛情」という環境で育ったために、お察しを受けて貰えないことにも恐怖を感じるし、お察ししてもらえないことにも恐怖を感じるのかもなぁ。
なんだかとても怖いエントリだったなぁ、と。